【AKB48/48G】2TOPで振り返る各グループの歴史 前編
前田敦子と大島優子、指原莉乃と渡辺麻友の関係に代表されるように、AKB48グループはグループの顔となるメンバーが二項対立の関係になることが多い。
その二項対立は、運営によって仕組まれたものもある。しかし、運営の意図に反して思いもよらないメンバーがグループの顔に成り上がる場合もある。
この記事では、各48グループの2TOPの歴史を振り返る。ただし、この2TOPの変遷は、私の感覚に基づいたものである。
○AKB48(48G)
初期の劇場公演やインディーズシングルの2TOPは、絶対的センター前田敦子と既にリーダーとしての素質を開花させていた高橋みなみであった。
その後、4thシングル『BINGO』・5thシングル『僕の太陽』あたりから、2番手が高橋みなみから小嶋陽菜へシフトしていった。
初の姉妹グループであるSKE48が結成され、SKE48のセンター・松井珠理奈が10thシングル『大声ダイヤモンド』のセンターを務めた頃、AKB48のセンターである前田敦子との二項対立が生まれた。
第1回総選挙以前のAKB48は、運営の推し出したいメンバーがそのまま2TOPとなりやすかった。また、センターという概念が今ほど確立されておらず、序列と歌唱順も曖昧であった。
しかし、第1回総選挙以降は、人気順=立ち位置=歌唱順というように序列が明確となった。第1回総選挙前までは序列の高かった小嶋も、第1回総選挙後は順位相当の序列に落ち着いた。
第1回選抜総選挙から第3回選抜総選挙まで、1位2位を争った前田敦子と大島優子の二項対立は、世間に「あっちゃんと優子どっち派?」という議論を巻き起こすほど大きなものであった。この2人の対立は、1期生と2期生の対立、チームAとチームKの対立でとあった。
さらに、陰陽、静と動の対立という解釈もできる。総選挙選抜の楽曲である17th『ヘビーローテション』22th『フライングゲット』の振り付けを務めた牧野アンナは前田が1位になった場合は周りを動かす振り付け、大島が1位になった場合には大島自身が動く振り付けといったように、2パターンの振り付けを用意していたという。
絶対的センター・前田のラストシングル26th『真夏のSounds good !』のMVにおいて、渡辺麻友が前田の後継者となるような演出があった。渡辺はチームBのセンターを務めてきたが、組閣により前田のいたチームAへ移籍した。
前田が卒業し、絶対的な二番手から絶対的な一番手となった大島優子と、それを追う渡辺麻友という二項対立の構図が、大島が卒業するまで続くかと思われたが、この予定調和を壊した者がいた。それが指原莉乃である。
その後、第6回選抜総選挙から第9回選抜総選挙は、柏木由紀がTOP2争いに食い込むこともあったが、基本的に正統派アイドル・渡辺麻友vs邪道アイドル・指原莉乃という構図となった。
当初は渡辺がベビーフェイス、指原がヒールのように扱れていた。しかし、徐々に渡辺がひとりアイドルを極める孤高の人物、指原が自らが育てた後輩(HKT48やSTU48)に慕われる偉大な人物といったように、リスペクトを持って描かれるようになった。
そして、第9回選抜総選挙をもって渡辺と指原が共に総選挙から引退し、二項対立は3位の松井珠理奈と4位の宮脇咲良に移行した。
「豆腐プロレス」では、宮脇咲良が主人公、松井珠理奈が最強の女子プロレスラーといったように描かれた。
2018年、第10回選抜総選挙とPRODUCE 48という大きなイベントが重なった。結果として、第10回選抜総選挙では松井が勝利し、宮脇は大穴の須田亜香里にも負ける大敗となった。しかし、松井は体調不良により芸能活動の休養を発表し、PRODUCE 48は宮脇咲良の一人勝ちとなった。
松井の休養と宮脇のIZ*ONE専任が重なり、この二項対立は思いのほか短命であった。しかし、松井珠理奈が日本国内のトップ、宮脇咲良が韓国、アジア、世界で活躍しているという日本vs世界といった二項対立が継続しているとも考えられる。
2019年、第11回選抜総選挙が開催されないことが発表された今、AKB48、および48グループにおいて、大きな二項対立は見られない。
強いて言えば、小栗有以と岡田奈々だろうか。ツインテールでガーリーな小栗と短髪でボーイッシュな岡田という見方もできるかもしれない。また、この2人の対立は、純AKB(*チームA〜4)vsチーム8との対立とも考えられなくもない。
しかし、スーパールーキー・矢作萌夏の登場もあり、新たな二項対立が生まれるか、はたまた三つ巴となるのか、予測ができない。
さらに、IZ*ONEや紅白出場も果たしたBNK48など、海外グループの勢いも無視できない。
今後、どのような2TOPが生まれるか注目して見ていきたい。
アイドルの文脈における「つながり」の定義
はじめに
NGT48 第三者委員会調査報告書において、私的領域における接触を「つながり」という言葉で表現している。この「つながり」はルールを守って応援しているファンへの裏切り行為であるため回避されるべきであり、「つながり」を持ったメンバーに何らかの処分を科すことを提言している。「つながり」はNGT48だけの問題ではない。ひいては、男性アイドルも含めたアイドル全体の問題である。華々しいアイドル人生を一瞬で終わらせる可能性のある「つながり」について考えたい。
なお、「つながり」と恋愛感情を同一視するファンもいるが、恋愛感情は「つながり」を持つための必要条件ではない。つまり、恋愛感情は、ごく一部のファンが「つながり」を持とうとする動機のひとつとして挙げられるが、「つながり」を持とうとする全てのファンに恋愛感情がある訳ではないということである。同様に、「つながり」を持ってしまったメンバーも必ずしも、そのファンに対して恋愛感情を抱いているわけではない。したがって、「つながり」の問題と「恋愛禁止」の問題は別問題だと考える。
「つながり」の定義
アイドル視点:
アイドル活動をしていなければ親密な関係にならなかった人々と、金銭授受の伴わない、公にできない関係を持つこと。
ファン視点:
アイドル活動をしている以前のアイドルと親密な関係でないにも関わらず、一般的なファンがアイドルを応援するという金銭授受の枠組みを超えて、アイドルと接触すること。
「つながり」ではない関係
・家族・親戚
血縁上、あるいは戸籍上、アイドルの家族や親戚だと認められる人という条件に加え、アイドル自身が家族、あるいは親戚だと認識しており、アイドル活動をする以前から習慣的に親交のある人。
「有名になると親戚が増える」と言うが、血縁上、戸籍上、親戚関係が認められる場合であっても、アイドル活動を始めた後に知り合った家族や親戚は、「つながり」の意図をもって接触を試みている可能性があるため、注意する必要がある。
・学校で出会った友人
アイドルが通う予定の高校や大学の情報を手に入れ、あるいは芸能高校に入ることを見越して、「つながり」を目的に入学するファンも稀に存在するが、ほとんどの受験生がこのような目的で進学先を選ばない。
居住地域が近かった、クラス替えで一緒になったなど偶然が重なり、アイドルと知り合ってしまった人に、「つながり」は認められない。
ただし、同じ学校、同じクラスといった条件こそ揃っているものの、アイドル活動を開始する以前に親密な関係でなかった人が、接触を試みようとした場合は「つながり」にあたる。
・地元の友人・幼馴染・義務教育前の友人
これらの友人との関係は、アイドル本人が幼い時に築かれたものであるため、両親の影響や出生地・出身地という環境により築かれた関係であると言える。
したがって、この関係を回避、あるいは断絶することは難しく、アイドル活動を始めたあとも習慣的に親交のある場合は「つながり」を認められない。
・アイドルが金銭を払うことで成立する友人・知人
例として、習い事の先生や友人、ボイストレーナー、ダンス講師、ジムのトレーナー、美容師、医師などが挙げられる。こういった人々は、アイドルから金銭を取り、アイドルに対してサービスを提供しているため、「つながり」とは認められない。
しかし、そういった関係にも関わらず、金銭を支払わずに会ったり、サービスの範疇を超えたことを求めたりすることは、「つながり」にあたる可能性もあるが、公にできる関係であれば問題がない。
・メンバー
同僚にあたるため、いかなる場合も「つながり」にあたらない。
・マネージャーを含む全てのスタッフ
アイドルがスタッフと親密な関係を築くことは極めて自然なことである。
稀に、アイドルとの「つながり」を目的にマネージャーやスタッフになる者もいるが、マネージャーを含むスタッフは、給料をもらってメンバーと関係を築いているため、「つながり」とは認められない。
マネージャーやスタッフはあくまで裏方であり、アイドルがあえて公に晒す必要はないが、公にできる関係であれば、マネージャーやスタッフが退職した後に関係が続いていても問題がない。
・共演タレント
アイドルが共演タレントと親密な関係を築くことは極めて自然なことである。
しかし、タレントは各々の事務所に所属しているため、お互いの事務所の規則を遵守する必要がある。
稀に、アイドルと「つながり」を持つためにアイドルとなる者もいるが、公にできる関係であれば問題でない。
・意図しない遭遇
ファンであろうがなかろうが、アイドルと意図しないで遭遇する可能性はある。その際、アイドルのプライベートを尊重するという観点から、声をかけるべきではない、握手やサインを求めるべきではないという意見もあるが、有名人を前にして興奮状態にあると仕方のない行為ともいえる。しかし、LINEのIDを教える、追跡するといった、もう一度会おうとする行為は「つながり」にあたる。
また、ネット上、あるいは友人・知人の遭遇情報に基づいて遭いに行く行為は、意図して遭遇しようとしているため、「つながり」にあたる。
「つながり」にあたる関係
・上記の条件を満たさない者(ファンを含む)
「つながり」を求めるファンへ
アイドルが卒業する前に、何らかの関係を築きたいのであれば、ファンを辞める必要がある。
公にできる関係に限られるが、「共演タレント」「マネージャーやスタッフ」「メンバー」「アイドルから金銭をもらいサービスを提供する人」になれば、堂々と関係を築くことができる。
「つながり」を持ったアイドルを責めるファンへ
上述のように、「つながり」を持ってしまったアイドルが必ずしも、そのファンに対して恋愛感情を抱いているわけではない。「つながり」を持ってしまうメンバーの心理を理解すべきである。
ネット上での誹謗中傷や人気メンバーとの売り上げや仕事の差など、アイドルは絶えずストレスのある環境に晒される。そのような状況の中、自身の膨大な経済力をほのめかすファンや事情通のように情報を持っていることをほのめかすファンにゆすられると、「このファンは味方にしておいた方がいい」「このファンを敵に回すと怖い」とやむを得ず、「つながり」を持ってしまう者もいる。
本来なら、運営や警察に相談すべきであろう事柄も、大事にしたらファンから嫌われてしまうどころか、復讐されてしまうかもしれないと相談できない場合もある。
当然ながら、「つながり」を持ってしまったメンバーのプロ意識は、「つながり」を持たずに真摯に活動しているメンバーよりも低いと言える。しかしながら、責められるべきは、「つながり」を持ってしまったメンバーよりも、「つながり」を持とうしたファンである。
「つながり」≠肉体的関係
何度も繰り返しているように、「つながり」と恋愛禁止は別問題である。ネット上では、「つながり」とは恋愛関係に基づいてファンと肉体的関係を持つことと解釈する者もいる。しかし、「つながり」は、恋愛禁止というアイドルの村掟の次元で語るべきものではなく、ストーキング・つきまとい行為というれっきとした犯罪行為として語られるべき問題である。
女性・男性問わず、アイドルファンが、アイドルに対して清純であることを求めることは極めて自然なことであるといえる。しかし、あたかも「つながり」を持っているアイドルが清純ではない、女性の場合は非処女だと責め立てることは論点がズレている。
「つながり」は伝染しない
「つながり」を持ったメンバーに対して、解雇・卒業を要求するファンもいる。あくまでケース・バイ・ケースだが、深刻な事案に関してはそのような厳しい処分が下されて当然である。しかし、少しでも「つながり」の疑いのあるメンバーに対して、追放しようとする運動は過剰であると考える。「つながり」に対して強い嫌悪感を抱き、「つながり」撲滅運動を担うファンは「つながり」をあたかも他のメンバーに伝染するもののように解釈している。しかし、「つながり」は全体的な風紀の乱れを生む可能性こそあるものの、直接「つながり」の関係が他のメンバーに移ることはない。
むしろ、「つながり」の絶望的な側面は、どんなに「つながり」を持ったメンバーを排除していっても、次の「つながり」を持つメンバーが生まれてしまうことにある。つまり、撲滅すべきは「つながり」を持ってしまったアイドルではなく、「つながり」を持とうとするファンなのである。
アイドルだっていろいろあるんだよ!
アイドルは二元論では語ることができない。もっと多元的なものである。白いアイドルと黒いアイドルに綺麗に分けることができたら、黒いアイドルを一斉に排除して真っ白なアイドル・グループができるが、実際にはグレーのアイドルもいっぱいいる。AKB48が真っ白なグループであったら、指原莉乃は生まれなかったであろう。
確かに、二元論で語った方が分かりやすくて面白いという側面もある。特に女性アイドルに関しては、白か黒かの基準を処女か非処女かで判断しようとするファンもいる。しかし、「つながり」の問題を白か黒か、処女か非処女かといったように考えてはならない。
諸悪の根源は、「つながり」を持とうとするごく一部のファンにある。もちろん、プロ意識の低さから「つながり」を持ってしまったメンバーにも非はある。しかし、健全なファンがすべきことは、「つながり」を持ってしまった、「つながり」を持っている可能性があるメンバーを責めることではない。「アイドルだっていろいろある」ことを受け止めて、それでも応援したいと思えるアイドルを応援するしかない。
今回の記事では、アイドルとファンの関係に重点を置いたため、運営については詳細に述べなかった。しかし、「つながり」を持とうとするごく一部のファンに厳しい処分を下さない運営は当然非難されるべきだと考える。
YouTubeのコメント欄に湧くアンチたち - 嫌なら見なければいいのになぜ?
YouTubeは動画共有サービスなので、動画を投稿し、あるいは投稿された動画を閲覧し楽しむというコンテンツです。
そこに付属する高評価や低評価、コメント欄などの諸機能はあくまで付属品で、その機能を使わなくても十分にYouTubeを楽しむことができると思います。
そのため、コメント欄にいるユーザーはYouTubeのユーザーの中でもコアな(少なからずライトではない)、そしてごく限られたユーザーであることに留意しなければなりません。
先日、某YouTuberさんがいわゆる炎上をしました。当該動画は削除し、一部のネットニュースにも取り上げました。その後、YouTubeのブログ機能のようなもので、謝罪文を公開した後、引き続き動画投稿を行っていますが、なぜ謝罪動画を出さないのか?と炎上騒動がまだ尾を引いています。
しかし、この炎上騒動にはいくつかの疑問点があります。
そもそも炎上したのか?
この騒動を知っている人は日本に、あるいは世界にどれくらいいるのでしょうか?チャンネル登録者数や再生回数だけを見ると、世界中にいる大量の人々に見られているようです。しかし、そもそも世界の中でYouTubeを日常的に見ている人は限られているし、チャンネル登録者数は複数アカウントを持つユーザーやアクティブでないユーザーも含みます。さらに、再生回数も1人のユーザーが何度も見ている可能性があります。そのような動画のコメント欄での炎上はボヤ騒ぎにすぎません。これが、テレビや週刊誌など他の媒体まで巻き込んでいけば、炎上なのでしょうが、飛び火したのはせいぜいネットニュースまででした。そのため、そもそも本当に当該動画は炎上したのか、一部のアンチがコメント欄で大騒ぎしているだけではないかという疑問が残ります。
謝罪動画の稚拙さ
炎上したYouTuberに対して、謝罪動画を上げろと要求する声が上がります。これは、過去に炎上したYouTuberが謝罪動画を上げた前例があるため、また、炎上を認めさせ動画で半永久的に記録し風化させないためであると考えられます。
しかし、この謝罪動画を上げたところで、許されるのでしょうか?きっと許されません。そもそも炎上したYouTuberたちが作り上げた謝罪動画という文化自体、謝罪会見をオマージュした動画作品群と捉えられます。普段は着ないスーツを着て、普段かけているBGMを消して…という動画はいつもとは違う非日常的な動画として、注目を浴びます。謝罪動画のアップを求めるユーザーたちは、いつも笑っているYouTuberの真顔といったような非日常性を謝罪動画に求めているため、通常の動画と変わらないひな形で作られた謝罪動画は反省の色が見えないなどといって認めないでしょう。
謝罪動画は謝罪会見とは異なり、真実を明らかにするものではなくYouTuberの一方的な弁明にすぎません。一方的な弁明をするのにおいて、動画よりも文章の方が余分な情報が加わらず誤解されにくいと考えられます。
嫌なら見なければいいのに、なぜ?
ブログ機能を使って謝罪した後、炎上した某YouTuberは通常の動画投稿を再開しました。
その後の動画でも、謝罪動画をなぜ上げない?全然反省していないなどといった批判コメントが相次いでいます。
そこで、そういうコメントをする人たちに対し、嫌なら見なければいいというユーザーがいます。
正論です。日本のテレビは数チャンネルしかありません。したがって、どのテレビ局も嫌なら見なければいいという方針で番組を作っていったら、テレビ離れを生んでしまいます。しかし、YouTubeにはあらゆるチャンネルがあります。動画を再生するだけで、広告収入がYou Tuberに行ってしまうため、You Tuberにとってファンもアンチも動画を見てお金を生む視聴者という点では同じです。本当に嫌いなYouTuberがいるのなら1秒も動画を再生しないことが有効なのです。
では、なぜ嫌なのに見るのでしょうか。いくつかの理由が考えられます。一つ目は、そのYou Tuberを貶めたいということです。再生回数の1回や2回貢献することになっても、コメント欄でその何倍も貶めるコメントを書けば、後者が勝ち越すと考えるのでしょう。二つ目は、勝手にテレビで言うところのBPO的なことを行ってしまう正義感です。ファンとして動画を楽しみに見ているわけではない、動画を監視し、評価しているのだと考えるのでしょう。しかし、その正義感も歪んでいる場合が多く、ほとんどはYouTuberを貶めたいという欲望を隠すために正義感を振りかざしていると考えられます。
全世界の人に発信する動画コンテンツには、もちろん配慮は必要です。しかし、YouTuberが謝罪しているのにもかかわらず、謝罪動画やさらなる謝罪を要求するユーザーは本当に謝罪を要求しているのでしょうか?荒れたコメント欄、風変わりな謝罪動画にワクワクしているだけなのではないでしょうか。
アイドルの男女共同参画 - 吉本坂46への期待
先日、吉本坂46の第1期生メンバーがお披露目されました。
48グループ・坂道シリーズでは初めてとなる男性メンバーを受け入れ、50代・60代のメンバーが10代のメンバーと共に活動するという規格外のグループが生まれました
激しい鍔迫り合いを行う総選挙や連日行われる劇場公演をアイデンティティーとする48グループに対し、坂道シリーズは(48グループと比較して)上品・クール・ルックスが良いというアイデンティティーを築き上げていました。したがって、下品でクールでない、ルックスの良くないメンバーは受け入れられないという「吉本坂アレルギー」を起こすファンが現れました。
私はこのアレルギーに関してはあって然るべきものと思います。しかし、私が違和感を覚えたのは主に男性ファンが抱く「男性アレルギー」と「年長女性アレルギー」です。これは吉本坂46に限ったことではなく、アイドルファンが抱きがちな慢性的なアレルギーだと感じます。
極論を言えば、処女である女性以外アイドルではないのか?ということです。
吉本坂46の活躍によって、ファンの慢性的な「男性アレルギー」と「年長女性アレルギー」は治るのではないか?と期待しています。
「男性アレルギー」の何がいけないのか?
アイドルは清純であるべき、男性との私的な関わりは避けるべきという思想は、アイドルを応援するうえであって当然なものだと思います。
女性だけのアイドルグループはいわば女子校です。そのアイドルグループが行うコンサートやイベント等はあくまでその女子校の中で行われる「内輪」のものです。
しかし、女子校の一歩外へ出ると男女比1:1の世界が待っています。それが(一般)社会です。女性アイドルグループは今いるファンを大切しながら、いかに一般人をファンにするか、つまり、どのようにしたら一般社会にいる人々に女子校の敷地内に入ってもらえるかも考えなければなりません。
したがって、アイドルグループは男女比1:1の世界に迎合しようとします。このことは、アイドルグループの冠番組を見れば一目瞭然です。AKB48ならウーマンラッシュアワー、乃木坂46ならバナナマン、欅坂46なら土田晃之とハライチ澤部、けやき坂46ならオードリーといったように、いずれも男性芸人をMCに起用しています。このMCという役割まで女性芸人、女性アナウンサー、もしくはメンバーの誰かが担ってしまえば、現実の女子校よりも女子校らしい状況が完成し、ファンではない人から見たら奇妙な環境に見えるでしょう。
アイドルの冠バラエティー番組のMCにはアイドルと年齢が離れている、プロとしての信頼感がある、そしてイケメンではない男性芸人がキャスティングされやすいため、ファンも彼らは恋愛対象ではないと判断し受け入れます。しかし、ドラマではアイドルと年齢が近い、芸歴の浅い、そしてイケメンの俳優と共演することも考えられます。
48グループのメンバーが多数出演するヤンキードラマ「マジすか学園」シリーズは馬路須加女学園が舞台でした。(3は刑務所が舞台だが囚人に男性はいない。)しかし、現在放送されている「マジムリ学園」は「嵐ヶ丘学園」という共学の高校が舞台となっています。
「男を出すくらいなら他のメンバーを出せ」「共演者同士で繋がってしまう」「ファンの嫌がるごとをしてファンを坂道に流そうとしている」などと舞台の設定が女子校から共学校に改変されたことに、反発する声が上がりました。
しかし、今回のドラマが他のマジすか学園シリーズと比較して、ファンではない一般層を意識して制作されているのは明らかです。マジすか学園シリーズの特徴として、ドラマの冒頭に「学芸会の延長です」という断り書きがあることが挙げられますが、今回のマジムリ学園にはありません。また、今回のドラマのオープニングムービーは役名の紹介にとどまり、小栗有以(AKB48)のように出演者の名前は表示されません。つまり、このドラマは48グループのドラマではなく、ドラマに48グループのメンバーが出演しているというスタンスに近いのです。
このように、女子だけの環境というのは女子校の中でしか起こり得ず、いわゆる外仕事、外を意識した仕事には男性も必ずついてきます。また、女子校の外はメンバーが卒業後に生きていかなければいけない世界でもあります。女子校しか知らずに活動してきたメンバーは、卒業後、外の世界で苦労することになるでしょう。さらに、こんなこと言ったら元も子もありませんが、女子校の生徒は女子だけかもしれませんが、職員・スタッフには男性も当然います。NGT48・山口真帆が「私はマジムリ学園の撮影でも男性スタッフとは殆ど話さないようにしてる」 と発言したようですが、それはただの社会性のない人です。アイドルもファンも一般社会、すなわち男女比1:1の世界に適応する必要があります。
女性アイドルグループのプロデュースに定評のある秋元康ですが、最近では「吉本坂46」だけでなく「劇団4ドル50セント」「青春高校3年C組」といった男女混合のグループをプロデュースしています。秋元康も男女比1:1の世界で活動できる人材を育て上げたいのはないでしょうか。
「年長女性アレルギー」の何がいけないのか?
そもそも、なぜ48グループ・坂道シリーズのメンバーは「卒業」しなくてはいけないのでしょうか。
48グループ・坂道シリーズを卒業するメンバーは卒業後の進路として女優になることを挙げがちですが、ジャニーズ事務所所属のタレントはグループとしての活動を続けながら俳優としても活動しています。ジャニーズ事務所所属のタレントに対して「おっさんが歌って踊ってるのは見苦しい、アイドルを辞めろ」という声はなかなか上がらないですが、女性アイドルに対しては20代後半ごろから「おばさん」などと呼ばれるようになり、「早く辞めろ」と老害呼ばわりされます。
元AKB48の篠田麻里子は「『後輩』に席を譲れ」と言う方もいるかもしれません。でも、私は席を譲らないと上に上がれないメンバーはAKBでは勝てないと思います。」という名言を残しましたが、翌年には卒業を発表し、事実上、後輩のために席を譲りました。
なぜ年長メンバーは年少メンバーのために席を譲らなければならないのでしょうか。
グループの新陳代謝という理由は筋が通っていると感じます。人気メンバーがずっと前にいてしまっては、グループとしての成長が見込めません。48グループ・坂道シリーズのグループはジャニーズ事務所のグループと構造が異なり、後者の方がずっとアイドル活動をしても、後輩に迷惑のかからない構造に設計されていると言えます。
しかし、少なからず「おばさん」だから辞めてほしいという、「おばさん」を拒絶するファンもいます。そういうファンがアイドルを応援するうえで重要視する傾向にあるのは処女性であるため、アイドルは若ければ若いほど良いと考えます。
以前、大人AKBとして既婚者で2児の母である塚本まり子さんが期間限定で加入した際、彼女が処女でないからといった理由から彼女を批判するファンがいました。そう批判するファンは、非処女である人を伝染病のように扱い、処女である他のメンバーに悪影響が及ぶと考えます。
アイドルに処女性を求めるのは異常なことではないと考えます。しかし、非処女である人をアイドルとして認めないどころか、非処女は移るといったように考えるのは病的です。そもそも、アイドルが処女であるかどうかは本人しか分かり得ないことで、何百人いるアイドルグループのメンバー全員が処女であることなど、まずないでしょう。
また、男性が妻帯者であろうが父親であろうがアイドル活動ができるのに対し、女性の既婚者、母親はアイドル活動ができない、しにくいというのは平等ではありません。
かつて、SDN48という既婚者も在籍することができたグループが存在しましたが、今は活動していません。吉本坂46が女性の既婚者もアイドルとして活躍できることを証明してほしいと期待します。
「PRODUCE48」に見るアイドルの男女共同参画
まず、私は韓国のアイドル事情には詳しくないことをお伝えしておきます。しかし、最近「PRODUCE48」という番組を見始めました。
「PRODUCE48」は「PRODUCE101」というオーディション番組の第3弾で、第1弾では「I.O.I」という女性アイドルグループが第2弾では「WANNA ONE」という男性アイドルグループが生まれました。
日本の番組で例えるなら、「ラストアイドル」Season1で女性アイドルグループが誕生した後に、Season2でSeason1と全く同様の方式で男性アイドルグループを製作する感じでしょうか。
これは、まさに男女が同じように扱われ同じようにアイドルとしてデビューする男女平等だと感じます。
しかし、これは日本では絶対に起こり得ません。その理由は、男性アイドルがジャニーズ事務所の独占市場になってしまっているためです。
(個人的に、ジャニーズはあくまでジャニーズであって、女性アイドルと対になる男性アイドルではないと考えます。このことは別記事で詳細に説明します。)
他にも、日本では絶対に起こり得ない現象が多々見られました。例えば、「PRODUCE48」のMCは、アイドルの先輩であるイ・スンギさんが務めています。日本で例えるなら、SMAPのメンバーが「ラストアイドル」の司会を務めるといった感じでしょうか。これも、日本では起こるはずがなく、実際の同番組の司会は、シーズン2こそユースケ・サンタマリアであるものの、シーズン1は伊集院光、シーズン3はカンニング竹山といったように、アイドルとは無縁の男性芸能人が務めています。
また、PRODUCE48の練習生たちはグループに分かれ課題楽曲を披露しますが、その課題楽曲の中には男性アイドルグループの楽曲も含まれていました。日本で例えるなら、嵐の楽曲をアイドルになりたい女の子たちが披露するといった感じでしょうか。これも絶対に日本では起こり得ません。嵐の楽曲を選択した時点で、ジャニヲタだと批判されてしまうでしょう。
このように、韓国では男性アイドルと女性アイドルが対になっているのに対し、日本では女性アイドルと対になるはずの男性アイドルがジャニーズという一癖ある事務所によって寡占されているので歪みが生じています。
また、アイドルを容姿の優れた異性のアイドル・芸能人から隔離させる、また、アイドル自身もそういった異性からは距離を置くことを選ぶ環境は、韓国では決して見られないわけではありませんが、日本では過剰であるといえます。
いかにしてアイドルの男女共同参画を果たすか?
男性ファンが抱く「男性アレルギー」(あるいは、女性ファンが抱く「女性アレルギー」)を治す方法は2つあると考えます。
1つ目は、免疫療法です。吉本坂46をはじめとする男女混合グループやマジムリ学園のような異性も登場するアイドル番組などが次々と制作されることで、ファンも自分の応援するアイドルが異性といる環境に慣れていきます。つまり、アイドルが魅力的な異性がいると恋愛関係になってしまうのではないか?という不安も消えていくと思われます。したがって、アイドルに求められるのはプロ意識です。魅力的な異性に好意を持つのは自由ですが、それを決してファンに見せないことに細心の注意を払う必要があります。
2つ目は、日本の女性アイドルと対になる男性アイドルの登場です。やはり、AKB48とジャニーズは同じ「アイドル」とされていますが全く異なるものです。しかし、日本にも韓国のアイドルのように男女で対になっているグループが存在しています。それは、EXILEとE-girlsの関係です。この2グループはパフォーマンス集団として対になっているため、共演したり互いに言及しあったりしても問題は生じません。これは、同グループのメンバーがお互いのグループのメンバーを魅力的な異性としてではなく同じプロのパフォーマーとして捉えているから成り立つ関係性といえます。したがって、女性アイドルグループのメンバーが魅力的な異性としてではなくあくまで同業者であるアイドルとして捉えることができる男性アイドルグループが登場すれば、アイドルを魅力的な異性のいる環境から隔離させたいというファンの気持ちが薄れるのではないかと考えます。
そして、「年長女性アレルギー」の治し方に関しては、年長女性アイドルに活躍してもらうほか方法はありません。吉本坂46の年長女性メンバーに期待がかかりますし、そろそろ48グループ・坂道シリーズから「卒業しないアイドル」が現れてもいい頃かなと感じます。
PRODUCE48 メンバー別 振り返り
本日、PRODUCE最終話が放送され、晴れて日本人からは宮脇咲良、矢吹奈子、本田仁美がグローバルアイドルグループ「IZONE(アイズワン)」のメンバーに選出された。
私は、PRODUCE101シリーズや韓国人練習生には詳しくないため、48グループファンの視点からPRODUCE48に出演した48グループのメンバーについて総括したいと考える。
記号は以下を意味するもので、あくまで私の主観に基づいたものである。
◎=今プロジェクトに参加し成功を収めた。
◯=今プロジェクトに参加して良かった。
△=今プロジェクトに参加したが影響なし。
×=今プロジェクトに参加したが悪影響。
◎宮脇咲良「常勝」
宮脇は今プロジェクトに参加する以前から韓国で人気があった。今プロジェクトで初めて世に出る韓国人練習生も多くいたため、既に日韓で人気のある宮脇の参加自体が反則気味であったことは否めない。
歌やダンスもそこまで上手いわけではないが、数々の曲のセンターを日本で務めたこともあり、表情や仕草などセンターとしての振る舞いやオーラには頭一つ抜けるものがあった。
宮脇は常に勝つべきところで勝つという印象がある。例えば、今プロジェクト中にはさまざまな戦いがあったが、真剣に戦なくても良い試合もあった。むしろ、負けた方が同情票を買えて美味しいなんて場面もあった。彼女にとって、最も勝たなければならない戦いは「ネッコヤ」のセンターバトルであった。「ネッコヤ」という曲は繰り返し放映されることや一番最初の楽曲であることなどから最も知名度や影響力のある楽曲であるといえる。この楽曲のセンターを勝ち取った彼女は、あとは最終回まで汚点や弱点を隠し続け逃げ切れば良かった。いわば、「ネッコヤ」のセンターを掴み取った時点で、デビューは確約されていた。宮脇と「ネッコヤ」のセンターを争ったイ・カウンがデビューできなかったように、もし宮脇があのバトルに負けていたらデビューできていなかったかもしれない。
さらに宮脇は日本人一位という相対的な勝利も収めている。途中、矢吹奈子や宮崎美穂に順位を抜かされる場面があったが、最終回までに挽回した。宮脇は日本の総選挙でも、自分より後輩、あるいは下位にいたメンバーに下剋上をされた経験が一度もない。
宮脇の勝つべきところで勝つ、場面によっては負けるが勝ちを実践するといった常勝のスキルは天性のものであろう。
◎矢吹奈子「”なこみく”からの解放」
韓国人アイドルグループは美脚を売りにするなど高身長な印象がある。矢吹のような低身長のメンバーは不利だと予想されていた。
しかし、予想とは裏腹に矢吹や後述の本田仁美のような低身長メンバーも「かわいい」という評価を得た。
日本では、矢吹奈子は田中美久と一緒に「なこみく」というニコイチ的な扱いを受ける。似たような風貌でありながら異なる個性を持つ、という魅力から「なこみく」を推すファンもいる。事実、2人は総選挙で9位・10位と連番でランクインするほど人気も互角である。
しかし、歌唱スキルやダンススキルは矢吹の方が圧倒的に上回っている。最初のクラス分けでは、「なこみく」として「となりのバナナ」を披露したが、2人ともFランクに。しかし、その後の再テストは個別でスキルが評価され、矢吹は一気にAランクに昇格している。
その後、田中美久は足の怪我を理由に番組を辞退するが、このことが結果的に吉だったといえる。日本では矢吹にとって福の神であった田中も、韓国では疫病神であったといっても過言ではない。
もし、田中が辞退せずに「なこみく」というコンビの意識で参加していたら、矢吹の個人的なスキルが評価されずに2人で共倒れしていたかもしれない。
◎本田仁美「結果的なシンデレラ」
今プロジェクトでは、日本では日の目を浴びなかったけど、韓国で日の目を浴びるメンバーが待望された。実際にこの番組を通して、何人もの非選抜、総選挙圏外メンバーが韓国で日の目を浴びた。
しかし、結果的にデビューできたのは本田仁美だけであった。彼女がデビューできていなければ、宮脇と矢吹という日本でも人気のメンバーが韓国デビューするというストーリー性も何もないプロジェクトになってしまっていたかもしれない。
彼女は韓国で「かわいい」と評価されたが、日本人が感じる王道の「かわいい」とは異なるルックスをしている。本田は度々、頬をアピールしていたが、下膨れ顔が韓国では珍しく赤ちゃんのように愛嬌のあるように映ったのだろうか。
◯宮崎美穂「狂犬みゃおはどこへ?」
宮崎美穂はかねてより親韓をアピールしていたため、他の日本人メンバーよりも今プロジェクトに情熱を注いでいた。
しかし、この強すぎる情熱が彼女の持つ個性であるバラエティー能力を隠してしまったのである。
PRODUCE48は番組の性質上、面白い練習生も必要であり、中西智代梨や山田野絵がこのポジションを担った。結果的に、いわゆるバラエティーメンバーは全員落選してしまったが、グループに必要な人材として彼女たちを惜しむ声も少なくない。
彼女の韓国語能力は他の日本人のメンバーと比較しても頭抜けていた。韓国語で面白いことがいえるレベルかどうかまでは判断しかねるが、韓国語で彼女の面白さが伝わっていれば、グループに必要なバラエティー要員として票を集められていたのかもしれない。
彼女に関しては、今後、韓国での活動に重点を置くために韓国の芸能事務所を探しているという噂がある。この番組を通して、彼女の韓国愛・韓国語能力が伝わったことは非常に良いことだが、年齢も若くない彼女に求められるのは面白さなのではないか。
◯高橋朱里「尊敬されるキャプテンに」
彼女はAKB48のチームBのキャプテンに任命されるなど王道中の王道を行くメンバーで、次期総監督候補にも度々名前が挙がるメンバーである。
正直、彼女のせいで高橋チームBが劇場公演の初日を未だ迎えられていないともいえるため、残れるところまで残って、デビュー後の長期間の活動には参加しないという結果は、チームのために良かったのではないかとも感じる。
また、今プロジェクトを通して培ったパフォーマンススキルや異国の地で努力を重ねた姿はキャプテンとして尊敬されるものであり、名実ともに兼ね備えた理想のキャプテンに成長したのではないかと考える。
◯竹内美宥「独学の歌唱法が仇に」
彼女のピークは自らが編曲した「ダンシングヒーロー 」を自らが歌った最初のクラス分けの時であろう。しかし、編曲という特技はここでしか披露できなかった。また、自分が編曲した楽曲は歌いやすく自らの歌唱スキルを余すことなく披露することができたのかもしれないが、特に最後の課題曲は非常に歌いにくそうにしていた。
彼女の歌声は特徴的なもので、それが魅力の一つでもあったが、独学であることが仇となり、グループでの歌唱には不向きであることが露わになった。
しかし、彼女の編曲スキルと特徴的な歌声をアピールできたことは彼女の将来に良い影響をもたらすと考える。
◯下尾みう「裸一貫」
彼女の所属するチーム8にはダンス自慢のメンバーが多数いるが、彼女はそこまで自身のダンススキルをひけらかさないため、彼女がこんなに踊ることができるということは知らなかった。
しかも、彼女は、番組中の面白い発言や、愛嬌ある様子でとりわけ注目を浴びたわけではなく、パフォーマンスだけで注目を浴びたメンバーである。
他の日本人メンバーは、番組を通して愛嬌、絆、努力、成長といったものを武器として使う傾向にあったので、彼女だけは裸一貫、パフォーマンスだけで勝負したという印象がある。
正々堂々戦った分、濃い印象や面白みはなかったが、韓国でパフォーマンスが評価されたということに自信を持って、今後も活動をしてほしい。
◯白間美瑠「万人受けするも1推しになれず」
彼女は顔も整っていて、高身長であることから、韓国でも人気が出ることが予測されていた。案の定、ランキングも高いあたりをキープしていた。
しかし、韓国人受けするルックスであるがゆえに、韓国人の練習生と類似タレントのような形になってしまい、最終審査の一人だけしか選ぶことができない審査になると彼女と比べて韓国語が話せてパフォーマンススキルのある韓国人の練習生が選ばれてしまう傾向にあったと推測する。
また、彼女の魅力の一つに愛嬌が挙げられるが、低身長ではないため愛嬌が伝わりやすいルックスではなく、どちらかというとセクシーという印象を持ったファンが多いのではないかと推測する。セクシーという指標でも、韓国人練習生がライバルとなってしまうため、厳しい戦いを迫られたといえる。
このように、多くの人から好かれたが、誰かの1推しになかなかなれなかったという印象がある。
◯村瀬紗英「現場投票1位の爪痕」
この番組では、観客の前でパフォーマンスを行い、その観客の投票で1位になることができれば、ベネフィットと呼ばれる追加点を得ることができる。
彼女は一度、この現場投票で1位を獲得しベネフィットを得た。ベネフィットを得ることができなければ、次の審査に進むことができなかったというストーリー性も申し分なかった。
日本でこのようなシステムを導入したとしても、結果的に人気投票になってしまうだろう。しかし、韓国のこの番組のファンは国民プロデューサーとして審査の目でステージを見る。そのため、そのステージの良し悪しが票に反映されやすい。
現場投票1位ということは、生で観て良かったということである。48グループのメンバーは劇場公演を行い、DMM配信でカメラに抜かれるという環境で過ごしてきたため、ステージ上での振る舞いは韓国人の練習生よりも得意であったと感じる。
前述の白間美瑠も現場投票で高評価だったことから、NMB48のメンバーはステージで豹変することが得意なのかもしれない。
彼女のルックスやセクシーさも余すことなくステージ上で披露することができたため、最善を尽くすことができたといえる。
◯後藤萌咲「スキルさえあれば」
彼女も高身長で、韓国受けするルックスであることが予想された。
案の定、番組の序盤では高いランクをキープしていたが、徐々に順位を下げていった。
彼女は最初のクラス分けテストのときに、花粉症で声が出ず、トレーナーたちは止むを得ず彼女をFランクに分類した。そのため、彼女の再テストへの期待は高かったが、後藤は再テストでギャップを見せることができず、結局1ランク上のDランク昇格に留まった。
一度、ダンスクイーンを決める企画で彼女がダンスクイーンとなったが、それは決して彼女のダンススキルが高かったからではなく、彼女のひょうきんさが評価されたためであるといえる。このひょうきんさをなかなかアピールできなかったことが悔やまれる。
また、パフォーマンススキルの向上は見られなかった。リズムを早く取ってしまうという彼女の癖は序盤に明らかとなり、最後まで治ることはなかった?
韓国受けするルックスを持っていたからこそ、スキルがあれば高いランクをキープできていたかもしれない。
◎千葉恵里「日本型アイドルを世界に輸出」
彼女は日本人練習生の象徴とも呼べるメンバーであった。ルックスや愛嬌こそ良いものの、パフォーマンスに関してはぽんこつ、しかし、この完璧ではない部分を愛し成長を見守っていくのが日本型のアイドルである。
当初、完璧なパフォーマンスを好む韓国人は彼女のようなスキル不足のメンバーを受け入れないことが予想されていた。
しかし、その予想は大きく外れ、韓国人視聴者も千葉恵里の保護者と化した。日本ではこのようなぽんこつアイドルを良く目にするが、韓国人にとっては衝撃的であったのであろう。
ただ、衝撃を残しただけではなく結果を残したことも評価したい。現場投票で彼女を筆頭にぽんこつメンバーが集ったBOOMBAYAH2組が、ダンススキルの高いメンバーが集った1組を下したのは歴史的な瞬間であった。
彼女のような日本型アイドルは日本でしか受け入れられないガラパゴスな存在として認識されていたが、彼女の活躍によって日本型アイドルとは何なのかが韓国人練習生とのコントラストでより鮮明に伝わり、日本型アイドルを応援する価値観が世界に伝播したといえる。
◯小嶋真子「安定感」
彼女も高橋朱里と同様に、(純)AKB48の中核を担っていくメンバーの一人であるが、岡田奈々や向井地美音らと比較して、総選挙での結果や人気面において遅れを取り始めていた。
しかし、彼女の劇場公演でのパフォーマンスには昔から定評があり、今プロジェクトでもパフォーマンスが絶賛されたわけではないが、安定感のあるパフォーマンスを披露した。
(純)AKB48の中核を担っていくメンバーとして、パフォーマンスや人気面での安定感は必要であるため、今プロジェクトでその安定感がより強固なものになったと考える。
◎中西智代梨「面白いだけじゃない」
彼女は日本ではバラエティー班として活動している。今番組でも、度々ユーモアセンスを披露し、脱落後も番組内の企画の司会に呼ばれるほどに認められた。
しかし、今番組では彼女の持つ面白さ以外も披露できたと感じる。チームで話し合うときに滲み出る優しさ、時にセンターに立候補する真面目さ、つらいと涙を見せるか弱さなどは日本ではなかなかフォーカスされない部分であった。
さらに、ステージ用のメイクアップをした彼女はブスと弄れるものではなく、ステージ上の彼女はバラエティー班とは思えないアイドルらしい姿であった。
◯武藤十夢「”総選挙7位”に恥じない結果」
彼女は今年の総選挙で7位に輝いたが、実人気や知名度と照らし合わせて考えると、太ヲタの存在あるいは組織票の存在は明らかである。
このような手厚い支援が行き届かない中、彼女はどこまでランクを上げることができるかが見ものであった。
韓国でも高くはないが安定した人気を誇ることが明らかになり、総選挙7位として誇れる結果ではないかもしれないが、少なからず恥ずかしくない結果であったといえる。
◎佐藤美波「日韓練習生の絆の象徴」
国籍の異なるメンバーが同じステージを作り上げるということに特異性があった今プロジェクトにおいて、演出上、日韓練習生の絆を示すことは必要不可欠であった。
日韓練習生の絆を最も分かりやすく示したのは佐藤美波とカン・へウォンである。
さらに、佐藤の評価すべきところはデビューを果たしたカン・へウォンを選んだ先見の明である。カン・へウォンがコメントするたびに佐藤もカメラに抜かれるという非常に美味しいポジションを獲得した。
彼女がこのようなことを計算していたのかは不明だが、彼女のこういったセンスはアイドルを続けていく上で役に立っていくだろう。
△岩立沙穂「中堅の壁を越えられず」
彼女は総選挙でも地道に順位を上げるもアンダーガールス止まりという結果を残せないメンバーである。
韓国でも、中堅の位置までは辿り着けたが、その先は行くことができなかった。
彼女は「ハイテンション」でセンターを務めたが、自身の所属するグループの楽曲のセンターを務めるのは図々しく感じられ、さらに、初めて踊る韓国人メンバーよりもダンスが下手というのは良い印象ではなかった。
彼女のダンスがひょうきんとして話題にはなったが、それを活かすことはできなかった。
中堅より上の位置にいる高橋朱里や小嶋真子がパフォーマンススキルを持っているのに対し、中堅の彼女がパフォーマンススキルを持っていないのは痛手であった。
前述の中西が番組を通して面白さ以外の部分を見せたのに対し、彼女は終始面白くあることに徹した。
彼女の面白さはテクニカルなものではなく、特徴的な声、表情や仕草に由来するものであるため、言葉の壁があっても問題がなかった。
デビュー候補生たちが日本でゲリラライブをする際のMCに任命されるなど、バラエティー班として結果は残したといえる。
◯浅井七海「努力家以外の魅力」
彼女はパフォーマンスがとりわけ上手であるわけではないが、努力家なところが魅力である。
ネ申テレビの合宿では、彼女の努力家なところがフォーカスされたが、今プロジェクトで彼女の努力家なところはフォーカスされなかった。
しかし、高身長で韓国受けするルックスを持つ彼女を支持するファンは一定数いた。
彼女が依存しがちな努力家という魅力以外の魅力で評価されたことが彼女の自信に繋がれば良いと考える。
◯村川緋杏「存在していた一定の需要層」
前述の浅井と同様に、彼女も、パフォーマンススキルがあるわけではないが、彼女の特徴的なルックスを好む一定のファンが存在した。
今プロジェクトに参加してその需要に気づくことができただけでも良かったと考える。
◯荒巻美咲「笑顔という見どころ」
彼女は笑わないアイドルとしてユニットデビューしたほど、笑顔を見せないのが特徴である。
しかし、笑わないアイドルなど前代未聞で、韓国では笑うように促された。
舞台上で、彼女が笑顔を見せた時に「美咲が笑った」とトレーナーたちが歓喜するシーンがあった。
自分自身で自分の笑顔の価値を上げ、笑顔を見せるか見せないかという見どころを作り上げたのは評価すべきである。
△本村碧唯「振付師としてはダメージ」
彼女は指原莉乃プロデュース=LOVEの楽曲の振付を務めるほどダンスには定評のあるメンバーであった。
しかし、彼女のダンスの評判は悪くはなかったものの、参加メンバー唯一の振付師としてはダンススキルが絶賛され無双状態になるべきだったと考える。
振付師が必ずしもダンススキルが必要であるわけではないが、創造力は必要である。その創造力もわかりやすく発揮できていなかった。
しかし、彼女が自らを振付師と名乗って参加したわけではないので、無影響といえば無影響である。
そもそも彼女はなぜPRODUCE48に参加したのだろうか。宮脇のように兼ねてから韓国への関心を示していたわけでもなく、既に日本で根強い人気を誇っている彼女が今プロジェクトに参加するのはあまりに貪欲であるといえる。さらに、彼女がとりわけ韓国受けするルックスだとも思えない。勝算の少ない試合にあえて参加した動機は何だったのであろうか。
実際に、ストーリーは宮脇咲良を中心に進み始めた。後輩でありライバルである宮脇のパフォーマンスがAクラスと評価され、先輩である彼女のパフォーマンスがBランクと評価されたことは屈辱であっただろう。
最初のパフォーマンス披露で日本人が軒並み低い評価を受ける中、彼女が日本ではダンスに定評のある中野郁海の評価がどうだったのか関心を見せる場面があった。つまり、彼女は中野のダンススキルを認めているということである。
しかし、松井珠理奈の途中棄権によって被害を受けたのは他でもない中野郁海である。もし、松井珠理奈が参加してなかったから、あるいは順位発表前に辞退していたら中野郁海は放出されず次の審査に進むことができたボーダーの順位だった。
彼女の体調不良の背景にPRODUCE48があるかは不明であるが、PRODUCE48に参加し味わった挫折は自業自得であり、途中棄権によって、周りに迷惑をかけたことも事実である。
×中野郁海「ダンス以外の魅力を」
彼女はダンス自慢として今プロジェクトに参加した。事実、AKBINGO!のダンス企画では横山結衣らと共に1位に輝いたことがあり、このことは彼女のパフォーマンスを評価するトレーナー陣にも知らされていた。
しかし、クラス分けの際に初披露した中野のダンスをトレーナーたちは酷評し、番組を通して中野のダンスが絶賛されることはなかった。
前述の本村と同様にダンス自慢の鼻を折られた形となったが、本村と異なるのはダンス以外の魅力があるかどうかである。
彼女は帰国後もダンスの上手いメンバーとして振舞っている。正直、今プロジェクトに参加してしまったが故に、ダンスが上手いという説得力がなくなってしまった。
ダンス以外の魅力があれば、番組でも評価されたかもしれないうえ、48グループのファンはダンスが上手いという理由だけからファンになる人は少ないため、48グループで活動するならダンス以外の魅力を探すことが必須である。
△茂木忍「最初から諦めモード?」
彼女は総選挙でもランクインするかしないかのボーダーラインに立たされるメンバーで、今プロジェクトでも最初のボーダーラインに立たされていた。
このボーダーラインを越えることが難しいということを一番感じていたのは彼女自身なのではないかと感じた。
番組の演出上、メンバーの入場時や順位発表時にガヤ芸が必要となるが、彼女はこのガヤから自信のなさや諦めている感じが伝わってきた。
もちろん、諦めモードであるから手を抜いていたというわけではないが、なんかいけるきがする!という根拠のない自信を持つことが彼女の魅力に繋がると考える。
×小田えりな「失った歌うまの座」
彼女はAKBINGO!の企画で歌うまナンバーワンの座に輝いたメンバーだが、前述の中野と同様に歌唱力は酷評され、番組を通して彼女の歌唱力が絶賛されることはなかった。
さらに、竹内美宥をはじめとする他の歌うまメンバーの知名度が上昇した今、彼女が歌姫を名乗ることは無粋である。
しかし、彼女は選抜総選挙にもランクインし、歌が上手いということ以外にも魅力があるメンバーであるため、歌「も」うまいメンバーとして活躍することを願っている。
×松岡菜摘「開き直るしかない」
彼女はチームのセンターを決める話し合いの際にセンターをじゃんけんで決めることを提案した。彼女の肩を持つわけではないが、彼女にも共感することはできる。センターを運によって決めず、実力、すなわちメンバー間の投票で決めるということはなんらかの政治的な何かが始まるということである。例えば、自分は日本人だから日本人に投票すべきか、自分は後輩だから先輩に投票した方がいいのか等といったように面倒なことがつきまとってくる。それによってメンバーの空気感が悪くなるくらいなら恨みっこなしでじゃんけんというのも一つの選択ではある。また、彼女はセンターを投票する際も全員にスポットライトが当たるように、あえて完璧でない日本人メンバーをセンターに選んだ。
しかし、PRODUCE101シリーズを一度でも観ていれば、この決め方は異常であることは理解できる。彼女の性格が云々というより、単に彼女は勉強不足であったと考える。自分が出演する番組なのだから、どういった感じのものなのか目を通しておくことという普通のことを怠ったのが命取りであった。
韓国、あるいは世界中に悪名を広めてしまった彼女はもう開き直るしかない。彼女の先輩である指原莉乃は早速、彼女のじゃんけんネタをイジった。
NGT48中井りかのように、48グループのヒール役として腹をくくる覚悟もあっていいかもしれない。
×長谷川玲奈「周りに恵まれず」
彼女は初登場時、前述の山田野絵と一緒に登場した。
山田はその特徴的な声とユーモアから一発で関心を集めるが、彼女はその横で棒立ちしているだけで、彼女に同調することもツッコミの役割に回ることもできなかった。
おもしろみのないメンバーは彼女以外にもいたが、隣に山田がいたことによって彼女の面白みのなさが際立ってしまったと考える。
さらに、彼女は前述のじゃんけん騒動があったチームに所属し、先輩である今田美奈をセンターに選んでしまったため、批判の対象となってしまった。
一方で、隣に山田がいなかったとしても、じゃんけん騒動のグループのメンバーじゃなかったとしても、彼女の陰が薄いのは変わらなかったであろう。自分の殻を破る、振り切ることができていないように感じた。
△加藤夕夏「ダンスができるは当たり前」
彼女はNMB48のダンス選抜に入るほど、ダンスが得意なメンバーとされていた。
今プロジェクトでも絶賛こそされなかったが酷評もされず、無難にダンスがてきていた。
しかし、このダンスができるということは日本では武器になるが、韓国ではスタートラインについただけであった。
無難にダンスができてしまったからこそ、「ダンスができるは当たり前」という洗礼を受け、注目を浴びなかったのではないかと考える。
×今田美奈「日本人のやさしさの被害者」
彼女は前述の松岡菜摘らが選んだセンターである。彼女がセンターに選ばれた理由として、日本人が過半数を占めていたことやもう一人のセンター候補イ・シアンのパフォーマンススキルが頭抜けていたことからシアンだけが目立ってしまうのではないかという危惧が挙げられる。
こうした日本人メンバーのやさしさと言う名の忖度でセンターに選ばれた彼女は当然、イ・シアンがセンターの方が良かったと言われることとなる。
結果的に、このチームはもう一つのチームに負けてしまったが、この敗因もセンターである彼女や前述の松岡に押し付けられてしまった。
△永野芹佳「スタードラフト会議は幻?」
彼女は10歳の時にオーディション番組である「スタードラフト会議」に出演し爪痕を残した。
しかし、今プロジェクトでは一切の爪痕を残せずに去っていった。
今思えば、スタードラフト会議も子どもなのに大人っぽい、子どもなのにあんなこともできるといったように、子どもなのにという枕詞がついていた。
しかし、子どもなのにという枕詞がもう使えない今、彼女には何もないといえる。
かわいい子役と子どもっぽいアイドルは似て否なるものであり、彼女はまだ前者である。子役体質から抜け出すことが彼女がアイドルとして成功するために必要不可欠である。
×市川愛美「実力不足を人のせいに」
彼女は当初、メインボーカルを務める予定であったが高音を出せずに直前でチームのメンバーと話し合いメインボーカルを下りることとなった。
その際に「だったら最初から私にやらせなければよかったのに」といった旨の発言をしたが、印象の良いものではない。
高音が出ないのは自身の実力不足であり、高音を出せるように練習するのが努力である。しかし、音域を広げることには限界があるため、自分の音域を把握しておく必要がある。
もし、彼女が自分の音域を把握していて、この高音は出せないと分かっていたら早い段階で明確なNOサインを出せたはずである。
直前でのメインボーカルの変更は彼女自身のせいでもある。
△栗原紗英「矢吹奈子デビューの功労者」
彼女と同期でありデビューを果たした矢吹奈子は、前述の市川が出せなかったメインボーカルの高音パートを見事に務めたところから人気と知名度に火がついた。
矢吹が高音を出せることを知っている彼女はメインボーカルへの立候補を躊躇っていた矢吹に「奈子できるんじゃない?」と名アシストをしたのである。
この名アシストがなければ矢吹の特徴的な歌声は注目されていなかったかもしれない。
個人的には矢吹奈子のデビューの功労者として◎を付与したいが、彼女自身は終始陰が薄く目立つことができていなかったため△とした。
△浅井裕華「ブンバヤ2組唯一の無個性」
BOOMBAYAHという楽曲は非常にセクシーでカッコいい振付で、ラップ歌詞もふんだんに含まれていて、とても初心者がパフォーマンスできるようなものではない。
それを、千葉恵里、佐藤美波、浅井七海、浅井裕華の日本人メンバーが踊り上げたのだから賞賛すべきだ。
しかし、千葉はぽんこつ、佐藤は韓国人練習生との絆、浅井は一定の人気を誇っていたのに対し、浅井はただこの組に所属していただけで、何の個性もなかった。
この組に所属していた韓国人メンバーであるカン・へウォンはデビュー、ハン・チョウォンは惜しくも13位という好成績を収めたことから、結果も印象も残せなかったのは彼女だけであるといえる。
彼女に個性がないのか、個性を出せなかったのかは判断しかねるが、何かをアピールすることに積極性を感じられなかった。
△内木志「いた?」
というのが正直な感想である。
放送の分量が少なかったのかもしれない。それだけ、彼女に見どころがなかったということである。
確かに、クラス分けもD→Cと昇格してはいるものの、劇的なものではない。
注目させるスキルもなければ、酷評されるスキルもないというのが、オーディション番組に出演する際には致命的であったといえる。
×篠崎彩奈「日本人最下位という不名誉」
彼女自身、番組中に何かをやらかした訳ではないが、何もできなかったのは事実である。
AKB48の総選挙では最下位は明らかにならないが、この番組の投票システムでは最下位まで判明してしまう。
日本人最下位という不名誉な記録は消えることはなく、彼女の芸能活動につきまとってくるだろう。
この不名誉な記録を名誉ある新たな記録で上塗りしなければならない。
彼女は足の怪我という名目で番組を辞退したが、今も普通に「センチメンタルトレイン」を踊っている。彼女と同グループに所属している朝長美桜は半月板損傷で活動を制限しているが、それと比較して軽傷であることは明らかだ。しかし、辞退に理由があることはクリーンであり、「志半ばの」辞退をアピールすることで批判を免れた。
彼女は前述のじゃんけん騒動があったチームのメンバーであった。あのチームの日本人は例外なく叩かれる対象となることは予測できていたため、そこから逃げるという危機回避をした彼女はセンスがある。
さらに、このまま参加を続けていたとしてもパフォーマンススキルのある矢吹奈子に差をつけられてしまうことは容易に予測できたため、辞退して正解であったと考える。
×月足天音・植村梓・梅山恋和
今プロジェクトの参加を序盤で辞退するという根性なしは、たとえ引き続き参加していたとしても醜態を晒していただけで、早い段階で辞退して正解であったと考える。
しかし、辞退の理由が明かされないため、根性がない、素行が悪いなどとさまざまな憶測を呼んでしまうため、既に良い印象は皆無である。
まとめると以下のようになる
◎ 宮脇 矢吹 本田 / 千葉 中西 佐藤 山田
◯ 宮崎 高橋 竹内 下尾 白間 村瀬 後藤 / 小嶋 武藤 浅井 村川 荒巻 / 田中
△ 岩立 本村 / 茂木 加藤 永野 栗原 浅井 内木
× 松井 / 中野 小田 松岡 長谷川 今田 市川 篠崎 / 月足 植村 梅山
こうまとめてみると、△より×の方が放送時間を獲得しているメンバーが多い気がする。
悪目立ちでも目立った方が勝ちと捉えるか、波風を起こさなかった方が勝ちと捉えるかは人それぞれである。
なぜYouTubeのコメント欄はカオスなのか?
SNSや掲示板、動画サイト等、ひとくちにネットのサイトと言えど様々な形態のものがあります。それぞれのサイトやサービスに独特の空気感があることは、インターネットを使う人なら誰しも感じることだと思います。
例えば、2ちゃんねる(5ちゃんねる)。2ちゃんねる自体、討論するジャンルごとに異なる板が存在し、その板ごとに独特の空気感が存在しますが、総じて映画「電車男」的なイメージを持つ人が多いと推測します。
最近では、HIKAKINをはじめとするYouTuberが若者の憧れのアイコンとして台頭し、YouTubeというサイト、YouTuberという職業が一般に認識されるようになりました。
しかし、人気YouTuberの動画のコメント欄は混沌そのものです。動画を閲覧した感想から誹謗中傷、動画に全く関係のないことまで、さまざまなコメントが羅列されています。
なぜ、人気YouTuberの動画のコメントはカオスになるのか、考えてみました。
コメントする時点で普通の人じゃない
そもそも、あなたはYouTubeでコメントをしますか?
私はYouTubeを頻繁に利用し、興味のある動画を観ますが、一回もコメントをしたことがありません。
Twitterや2ちゃんねるは、文字によるコミュニケーションがメインですが、YouTubeはあくまで動画の閲覧がメインです。
したがって、文字によるコミュニケーションを行う必要性はなく、YouTubeのコメント欄を使用しなくても、YouTubeというサイトを十分に楽しむことができます。
では、どのような人がわざわざコメントをするのでしょうか?
まずは、アップロードされた動画、または動画の製作者に好意を抱くファンが挙げられます。ファンの中でも、私の書いたコメントをぜひ読んでもらいたい、好きという気持ちを伝えたいといったような強い意志を持った人が多いと思われます。
一方で、アップロードされた動画、または動画の製作者に嫌悪感を抱くアンチも挙げられます。ただのアンチではなく、自分のコメントで傷ついてほしい、嫌いという気持ちを伝えたいといったような強い悪意を持った人が多いと思います。
このように、YouTubeのコメント欄はわざわざコメントをするくらい好意を抱いているファンとわざわざコメントをするくらい悪意を抱いているアンチの対立構造が発生しやすく、普通の人がなかなか現れないためカオスに陥りやすいと考えます。さらにそこへ極端な年少ユーザーのコメント、外国のユーザーのコメント、理解できない支離滅裂なコメントなどが加わるため、カオスな状態に拍車がかかります。
YouTuberにプロもアマもない
YouTubeのコメント欄に常駐するユーザーで自らも動画クリエイターであるユーザーはごく稀です。つまり、動画クリエイターと「見る専」は明確に分かれています。したがって、「見る専」のアカウントページには動画やその他の情報が載っていない場合が多く、匿名状態のユーザーになり得ます。
「見る専」の人の特徴として、いかなる動画も一律に評価することが挙げられます。「見る専」の人はYouTuberはプロとアマの線引きが曖昧であるため、有名アーティストのミュージック・ビデオも昨日YouTubeを始めた一般人の動画も平等に評価します。したがって、「この人、これが2回目の動画でしょ?よくやったと思うよ」といったように初心者だから妥協してあげるという姿勢はなかなかみられません。
クリエイターが動画の質をあげるのに長い時間と労力を必要とするのに対し、「見る専」の人は動画を見れば見るほど目が肥えていき簡単にプロの「見る専」になれます。したがって、彼らのコメントは痛烈でありながら、意外と的を得ていることも多く、「見る専」>クリエイターという強弱関係が生まれやすいのです。コメント欄が強すぎることがYouTubeのコメント欄の特殊性の一因であるといえます。
まさかコメントを読んでくれていたとは…
自分でコメントをしておいて、YouTuber側から何らかのレスポンスが来た際に、このような反応をするユーザーがいます。
人気になればなるほど、ひとりひとりのコメントは埋もれていきます。したがって、製作者も忙しいし絶対コメントなんて読んでいないだろう、自分のコメントも埋もれるだろうと考え、ダメ元でコメントをするユーザーが現れます。そういったユーザーのコメントは動画の製作者を意識したものではなく、どちらかというとその動画の閲覧者を意識したもの、あるいは独り言のようなものになります。
例えば、「◯◯と思う人はいいね(を押して!)」と閲覧者の共感を呼ぶコメントや、「△△ってコメントしてる人はなんなの?」と閲覧者を煽るコメントが挙げられます。
たまに、誹謗中傷コメントをしておいて、そのコメントに製作者が何らかのリアクションを起こした場合、素直に謝罪するユーザーがいます。謝るくらいなら最初から誹謗中傷コメントなどしなければ良かったのでは?とも思いますが、そのようなユーザーは最初から製作者を攻撃する意図はなく、あくまでコメント欄にいるアンチの共感を集めたかっただけだと考えられます。
このように、YouTubeのコメント欄はファンとアンチが入り混じる現実世界ではありえない状況になりやすい上、全てのユーザーが製作者に向けたコメントを残すわけではないためコメントのベクトルがバラバラ、さらに本来主役であるはずの動画製作者が弱者となりおまけのコメント欄にいる「見る専」が強者なるという複雑な環境であるといえます。このような複雑な環境こそがYouTubeのコメント欄のカオスだと考えます。
なぜ「東京五輪学生ボランティア応援団」のHPを読めないのか?
2018年8月20日、Twitterで「東京五輪学生ボランティア応援団」が話題になりました。
ホームページは、学生たちに向けて如何に東京五輪ボランティアに参加することが有意義であるかを盲目的に説得する体裁を取りながら、東京五輪、およびそのボランティアへの辛辣な皮肉を書き連ねるという真の目的が隠されています。
Twitter上では、この文章を書いた作者の批判的思考力を評価する声が上がり、若者のやりがいを搾取する学生ボランティアについて議論が巻き起こりました。その一方で、ホームページの皮肉に気づけない者、その皮肉に気づけない者を批判する者、その皮肉に気づけない者を批判する者を批判する者…といったように、このホームページを読解する力に関して論争が巻き起こりました。
なぜ「東京五輪学生ボランティア応援団」の真のメッセージを読み取れないのか、考えてみました。
スクショの罠
私はこのホームページに、トレンド2位の「東京五輪学生ボランティア応援団」をタップ、スクショされた文章を読む、「何これ?」と思いホームページのリンクを踏むという経緯で辿り着きました。恐らく、私以外にもこのような経緯でこのサイトを知った方はいらっしゃると思います。
しかし、このホームページの文章量は1枚のスクショじゃ収まらないどころか、Twitterに上げられる画像の枚数の上限である4枚でも収まりません。さらに、どこをスクショするかはスクショしたユーザーの感性によるため、必ずしもこのホームページの全てが凝縮された部分をスクショしているとは限りません。
そのため、スクショという氷山の一角だけを見て、議論に加わるユーザーが皮肉を理解していない者としてあぶりだされました。
しかし、そういったユーザーの中には、原文を読むと「そういうことだったのか」と気づくことができる者もいます。つまり、彼らは読解力が無いから皮肉が理解できなかったわけではなく、原文に目を通した人と肩を並べて議論をするには時期尚早であっただけだと考えられます。
なぜ「最後に」まで読めない?
このホームページは「最後に」という章でラストスパートをかけるように皮肉が大量に書き連ねられています。この部分を読んで、このホームページの意図を確信できるため、「最後に」まで読んでないと思われるユーザーに対して「最後に」まで読んで!というリプライが飛び交いました。
「最後に」をいわゆる「結論」だとすると、このホームページの「序論」「本論」は東京五輪学生ボランティアを応援するという体裁を取っています。したがって、狂信的に五輪の良さや五輪学生ボランティアの良さを伝えようとするため、違和感や嫌悪感を覚えます。
おそらく、この違和感や嫌悪感が「最後に」まで読めなくさせる原因だと考えます。このホームページを閲覧するためにお金は払っていないから途中で読むのを辞めてももったいなくない、これから先もこの違和感や嫌悪感が続くなら読むのをやめようと判断するのでしょうか。例えば、映画館に行き、開始数分で「この映画面白くないな」と思っても、チケットを買ってしまっているため、なかなか途中退出する勇気は湧いてきません。しかし、最後まで観てみたら意外と面白かったということもあるはずです。しかし、YouTubeならどうでしょうか?自分の観たい動画だけを観て、自分が面白くないと思った動画はすぐに閉じる(意地悪なユーザーは低評価や批判コメントを残すのでしょうが…)ことができます。このホームページは後者に近いと言えます。食わず嫌いができてしまう環境がインターネットなのかもしれません。
「最後に」まで読んだけど
中には、「最後に」まで読んだけど、いわゆる「序論」「本論」と矛盾しているという指摘するユーザーもいます。
このホームページは「最後に」以外の「序論」「本論」にも皮肉が散りばめられています。したがって、このような指摘をするユーザーは「序論」「本論」を純粋に東京五輪学生ボランティアを応援する論旨だと誤解してしまっていると推察されます。
こういった誤解をするユーザーは、ある特定の単語やフレーズを真実だと疑わず、信じてしまい突っかかってしまう傾向があると感じます。例えば、タイトルである「東京五輪学生ボランティア応援団」。この名前を信じて疑わない人には、「序論」「本論」は東京学生ボランティアを応援する文章に見えるのでしょう。そもそも、「東京五輪学生ボランティア応援団」とは何なのか、実在するものなのかを疑うことができる批判的思考力が重要であるといえます。そのような批判的思考力があれば、団と名乗るのに団員と思しき人物が一名しかいない、団員の募集をしていないなどといった不自然な点に気づくことができます。
さらに、「早稲田」なのに矛盾した文章を書いているといった的外れな指摘もありました。これは、「早稲田」という大学名に固執している例です。そのユーザーが「早稲田」に対して抱いているイメージが、思考を歪ませてしまい、ホームページのどの文章を読んでも「早稲田」であることがつきまとってしまうと考えます。こうした歪んだ思考では正常に文章を解釈することは難しいはずです。しかし、少なからずこのホームページからだけでは、作者が本当に早稲田大学の生徒であることは明らかでありません(本当に早稲田大学の生徒である可能性もあります)し、そもそも作者が早稲田大学の生徒であるかは、そこまで重要な問題ではありません。
団体名やタイトルといった文章の根幹をなすものへも批判的思考を持つ力、どこが重要かを客観的に察知し重要でない情報は捨てながら読み進めていく力が、インターネット上の文章を読む上で大事だと感じました。
余談ですが、私のインスタのプロフィールは #(好きな番組名) #(好きな劇団名)と書いてあります。先日、DMで「(好きな番組)に出演されてる方ですか?」「(好きな劇団)の劇団員の方ですか?」と送られてきて驚きました。私の投稿を見れば私が芸能人でないことなど明らかですし、(好きな番組)や(好きな劇団)をインターネットで調べれば自分が出演していない、所属していないことなどすぐに判明します。「名前」が書かれているだけで、「出演している」「所属している」というところまで論理が飛躍してしまうことに驚愕しました。私にDMを送る前に、客観的に「んなわけねえだろ?」と思ったり、ググったりしてくれよ!って思いました。
このブログを読んでくださった方の中に、「あなたがあのホームページの作者なんですか?」なんて言いだす人がいないことを願います。