なぜ「東京五輪学生ボランティア応援団」のHPを読めないのか?

2018年8月20日Twitterで「東京五輪学生ボランティア応援団」が話題になりました。

ホームページは、学生たちに向けて如何に東京五輪ボランティアに参加することが有意義であるかを盲目的に説得する体裁を取りながら、東京五輪、およびそのボランティアへの辛辣な皮肉を書き連ねるという真の目的が隠されています。

Twitter上では、この文章を書いた作者の批判的思考力を評価する声が上がり、若者のやりがいを搾取する学生ボランティアについて議論が巻き起こりました。その一方で、ホームページの皮肉に気づけない者、その皮肉に気づけない者を批判する者、その皮肉に気づけない者を批判する者を批判する者…といったように、このホームページを読解する力に関して論争が巻き起こりました。

なぜ「東京五輪学生ボランティア応援団」の真のメッセージを読み取れないのか、考えてみました。

 

スクショの罠

私はこのホームページに、トレンド2位の「東京五輪学生ボランティア応援団」をタップ、スクショされた文章を読む、「何これ?」と思いホームページのリンクを踏むという経緯で辿り着きました。恐らく、私以外にもこのような経緯でこのサイトを知った方はいらっしゃると思います。

しかし、このホームページの文章量は1枚のスクショじゃ収まらないどころか、Twitterに上げられる画像の枚数の上限である4枚でも収まりません。さらに、どこをスクショするかはスクショしたユーザーの感性によるため、必ずしもこのホームページの全てが凝縮された部分をスクショしているとは限りません。

そのため、スクショという氷山の一角だけを見て、議論に加わるユーザーが皮肉を理解していない者としてあぶりだされました。

しかし、そういったユーザーの中には、原文を読むと「そういうことだったのか」と気づくことができる者もいます。つまり、彼らは読解力が無いから皮肉が理解できなかったわけではなく、原文に目を通した人と肩を並べて議論をするには時期尚早であっただけだと考えられます。

 

なぜ「最後に」まで読めない?

このホームページは「最後に」という章でラストスパートをかけるように皮肉が大量に書き連ねられています。この部分を読んで、このホームページの意図を確信できるため、「最後に」まで読んでないと思われるユーザーに対して「最後に」まで読んで!というリプライが飛び交いました。

「最後に」をいわゆる「結論」だとすると、このホームページの「序論」「本論」は東京五輪学生ボランティアを応援するという体裁を取っています。したがって、狂信的に五輪の良さや五輪学生ボランティアの良さを伝えようとするため、違和感や嫌悪感を覚えます。

おそらく、この違和感や嫌悪感が「最後に」まで読めなくさせる原因だと考えます。このホームページを閲覧するためにお金は払っていないから途中で読むのを辞めてももったいなくない、これから先もこの違和感や嫌悪感が続くなら読むのをやめようと判断するのでしょうか。例えば、映画館に行き、開始数分で「この映画面白くないな」と思っても、チケットを買ってしまっているため、なかなか途中退出する勇気は湧いてきません。しかし、最後まで観てみたら意外と面白かったということもあるはずです。しかし、YouTubeならどうでしょうか?自分の観たい動画だけを観て、自分が面白くないと思った動画はすぐに閉じる(意地悪なユーザーは低評価や批判コメントを残すのでしょうが…)ことができます。このホームページは後者に近いと言えます。食わず嫌いができてしまう環境がインターネットなのかもしれません。

 

「最後に」まで読んだけど

中には、「最後に」まで読んだけど、いわゆる「序論」「本論」と矛盾しているという指摘するユーザーもいます。

このホームページは「最後に」以外の「序論」「本論」にも皮肉が散りばめられています。したがって、このような指摘をするユーザーは「序論」「本論」を純粋に東京五輪学生ボランティアを応援する論旨だと誤解してしまっていると推察されます。

こういった誤解をするユーザーは、ある特定の単語やフレーズを真実だと疑わず、信じてしまい突っかかってしまう傾向があると感じます。例えば、タイトルである「東京五輪学生ボランティア応援団」。この名前を信じて疑わない人には、「序論」「本論」は東京学生ボランティアを応援する文章に見えるのでしょう。そもそも、「東京五輪学生ボランティア応援団」とは何なのか、実在するものなのかを疑うことができる批判的思考力が重要であるといえます。そのような批判的思考力があれば、団と名乗るのに団員と思しき人物が一名しかいない、団員の募集をしていないなどといった不自然な点に気づくことができます。

さらに、「早稲田」なのに矛盾した文章を書いているといった的外れな指摘もありました。これは、「早稲田」という大学名に固執している例です。そのユーザーが「早稲田」に対して抱いているイメージが、思考を歪ませてしまい、ホームページのどの文章を読んでも「早稲田」であることがつきまとってしまうと考えます。こうした歪んだ思考では正常に文章を解釈することは難しいはずです。しかし、少なからずこのホームページからだけでは、作者が本当に早稲田大学の生徒であることは明らかでありません(本当に早稲田大学の生徒である可能性もあります)し、そもそも作者が早稲田大学の生徒であるかは、そこまで重要な問題ではありません。

団体名やタイトルといった文章の根幹をなすものへも批判的思考を持つ力、どこが重要かを客観的に察知し重要でない情報は捨てながら読み進めていく力が、インターネット上の文章を読む上で大事だと感じました。

 

余談ですが、私のインスタのプロフィールは #(好きな番組名) #(好きな劇団名)と書いてあります。先日、DMで「(好きな番組)に出演されてる方ですか?」「(好きな劇団)の劇団員の方ですか?」と送られてきて驚きました。私の投稿を見れば私が芸能人でないことなど明らかですし、(好きな番組)や(好きな劇団)をインターネットで調べれば自分が出演していない、所属していないことなどすぐに判明します。「名前」が書かれているだけで、「出演している」「所属している」というところまで論理が飛躍してしまうことに驚愕しました。私にDMを送る前に、客観的に「んなわけねえだろ?」と思ったり、ググったりしてくれよ!って思いました。

このブログを読んでくださった方の中に、「あなたがあのホームページの作者なんですか?」なんて言いだす人がいないことを願います。